レイのこと

私は万象の動きをじっと見つめているようなキリンの優しい視線が好きでした。

多くのことは大したことではない、『レイ』はいつもそんな思いを私に抱かせてくれます。

東京の上野動物園、その最奥に近いところに、キリンの一角があります。そのうちの一頭、最も視線が合う回数の多い彼を、私は心の中で「レイ」と呼んでいました。お辞儀をするようにこうべを垂れる仕草は、こちらに一礼をしているかのようです。だから、レイ。

つもる話の途中で、振り出しそうな曇り空を見上げながら、ふと「今日は雨が降ったら困るんだよね」と私が呟くと、「心配ないよ。雨が降るときは降る。止むときは止む」と言いたげな彼の視線がたまらなく懐かしくなるのです。

遠い信州の奥地から私がやってきたのは、X年前の春です。(年齢が発覚するのは恥ずかしいから、伏せさせてください。)

ほんの数週間前に高校を卒業し、はじめてのひとり暮らし。両親が住まわせてくれたちいさなアパートは、午後4時のやわらかい斜陽に包まれていました。明るく清潔で、だけどまだ人の気配がしない部屋。コーヒーを淹れても食パンを切っても、そのすべては一人ぶんだけ。冷蔵庫はすぐ空っぽになっていしまいます。信州の自宅の冷蔵庫はあんなに作り置きのおかずで溢れていたのに。

寂しさに慣れるころには、一人暮らしは私に、不安ではなく自由を与えてくれるようになりました。

上野動物園に行ったのは、長袖に上着を羽織りたくなるような10月のはじめ。

「寒いことが、人の気持ちを暖めるんだよ。離れていることが、人と人とを近づけるんだ」

心理学の授業で、ある教授がそんなふうに述べていました。本当にゆっくりと、同じ言葉を二度繰り返して。そのシーンを頭のなかで再生しながら、私はレイを見つめます。彼は遠く離れた何を見つめているんだろう。その先になにがあって、レイは何に近づきつつあるのでしょうか。

いまもまだ、あの静かな目線で彼方を想っているのでしょう。

あなたはなにを見つめていますか。

「レイのこと」おわり.

—————————————————————————————
(敬愛する写真家・星野道夫氏の編著『旅をする木』より、一部表現を参考にさせて頂きました。)


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA